私も、ずっといろんな悩みや
トラウマを抱えて生きてきました。
でも、今はそれらすべてが、
私にとって偶然ではなく必然であり、
今の私」を作り上げるために、
そしてあなたとご縁をいただくために、
大切な“1つのピース”であったのだと、
すべての出来事に感謝をする毎日です。
そんな私が、どんな日々を送ってきたのか、
ご紹介することにいたします。
三重県生まれ 父、母、妹の4人家族に生まれる
1981年5月7日、
三重県四日市市に生まれました。
何不自由ない、
サラリーマンの父、
専業主婦の母、
2つ下の妹の4人暮らしでした。
母に対する緊張感が、
私の記憶をなくした
2歳年上の従兄が弾いていた、
とても下手な「キラキラ星」を
真剣に見ていたことがきっかけで、
母の姉の勧めもあり、母に連れられ、
3歳半の私は
ヴァイオリン教室の門を叩きます。
親子で練習することを
大事にしていた教室の方針もあり、
だんだん母は
教育ママになっていきました。
母の母親も学校の先生を
していた人でしたから、
子どもの教育には厳しかったのでしょう。
私は幼い頃、
どのくらいどうやって
練習していたのか、
全く記憶がありません。
小学校3年生の家庭訪問で
担任の先生に自分の演奏を
聴かせたことが、
自分が演奏している
一番小さい頃の記憶です。
どうして5~6年もの間、
記憶がなかったのか。
30年経って分かったのは、
小学校3年生の先生が
ヴィオラを弾く先生で、
私のことをたくさん
褒めて下さったからでした。
子どもは緊張状態が続くと、
記憶がなくなると言います。
小学校3年生の先生に、
褒めていただいたとことで、
自分の自信になり、
以後は楽器を弾いている記憶が
残るようになったのではないか、と
思っています。
そして、今思えば、
緊張状態の環境の中で、
自分の感情に蓋をして、
言われたことを素直にやることで、
その後の「頑張る自分」を
無意識に築き上げていったのかも
しれません。
「何でお母さんは
他の子と
比べるの?」
ヴァイオリン教室を通して、
たくさんのお母さんと接する中で、
「何でお母さんたちは
自分の子と他の子を
比べるのか?」
という疑問を小学校高学年の頃から
抱くようになっていきました。
子どもはみんな、
それぞれ良さがあります。
丁寧に演奏する子
早く弾くのが得意な子
マイペースだけど、
とても楽しんで弾いている子 …
でも、大人はその子の
良いところを見るわけではなく、
どのくらい難しい曲が弾けるのか?
というところでしか、
子どもを評価していないような
気がしていたのです。
「あんたが
この子の
面倒を見て!」
妹の教育係に任命
妹が小学校高学年になった頃から、
母に対する反抗が強くなり、
家に帰ると毎日母と妹が大喧嘩。
私は居場所がなくなると、
自分の部屋に駆け込みました。
ある日、
「私はもうこの子の面倒は
見やんから、あんたが
この子の面倒を見て!」
と母から妹の教育係を言い渡されます。
学校の勉強から習い事まで、
妹の面倒を見ることは
思いのほか嫌ではなく、
むしろ母も妹も
私を頼りにしてくれていることに
ホッとしつつ、
何より母と妹の喧嘩が減ったことは、
毎日の生活に安心感をもたらしました。
反抗したら、
倍返し
落ち着くように見えた日々も
長くは続かず、
今度は私の進学をめぐり
私と母が対立します。
中学3年生の家庭訪問で
私の志望校をめぐって、
私と母の意見が分かれたその日の夜、
私は自分の意見に
耳を傾けてくれない
母への悔しさから、
母をバシッ!と叩き、
2階の自分の部屋へ
駆け込んでいきました。
その私の後を激怒した母が
追いかけてきて、
妹が寝ているにも関わらず、
ものすごい剣幕で
怒鳴りまくってきたのです。
一部始終を見ていた父が
その場を取り繕い、
何とかやり過ごすことができましたが、
私は、どうして父は
もっと早く助けに来てくれなかったのか、
そして、
もうこれ以上母に反抗するのはやめよう、
と思ったのでした。
自分の行きたい
学校の話も聞いてくれない、
自分が楽しんでやっている
生徒会も理解してくれない。
そんな人と同じ屋根の下で
一緒に暮らしていくのは
無理だと思ったのです。
私の大好きな先生は、
心理学に詳しい
英語の先生
中学3年生の担任の先生は、
私の一番好きな先生でした。
生徒を心から信頼し、
生徒の要望にはきちんと耳を傾け、
対応して下さる先生でした。
「“大人はこの答えが欲しいんだな”と
思って回答したものや、
良い子ぶった回答はいらない。
自分が“これだ!”
と思った答えを書きなさい。」
道徳の授業でこう言われた時、
私は雷に打たれたような
衝撃を受けました。
みんなに話している先生の声が、
自分に話しかけられているような
気持ちになったのです。
その瞬間、私は常に大人の顔色を見ながら
生きていたことに気づきました。
そして、この先生ように生徒の心に影響を
与えられる先生になりたい!と
教員を志すことにしたのです。
学校が
大好きだった私が、
「学校に
行きたくない!」
母校に行くことを
楽しみにしていた教育実習。
しかし、
現実は附属の学校に行かねばならず、
実習を受ける中で、
学校現場の厳しさを知ります。
生徒として携わる“学校”と、
教員として携わる“学校”は、
全く違ったのです。
学校が大好きだった私が、
「学校には行きたくない」自分になるとは
思ってもみない出来事でした。
中学3年の先生に憧れ、
希望を持って行った教育実習。
しかし、現実は先生が子どものお手本になるどころか、
雑務に追われる先生たち。
教育実習の1か月が1年にも
感じられた私は、
この仕事はやっていけない、と
教員の道を諦めることにしたのです。
私は、先生のために
音楽をしていたんだ…
大学3年で夢を失ってしまった私は、
大学4年で出会ったヴァイオリンの先生に
「大学院の試験を受けてみないか?」と
誘っていただき、
何となく受験を決めました。
しかし、それほど真剣にヴァイオリンと
向き合ってきたわけでもない私が、
大学院を受験するということは、
想像以上に大変なことでした。
その頃、私と母との関係も良くなく、
家では練習したくない現状に加え、
1年半付き合っていた彼との別れもあり、
夏休み中の誰もいない学校に籠り、
冷房もない狭く暑苦しい練習室で、
何時間もヴァイオリンを
弾き続けたのです。
次第に、自分の心が壊れていきました。
自分の「音」には、
自分の心の状態がはっきり表れます。
自分の音を聴くと、
その音が刃となって
自分の心に突き刺さりました。
そして、
練習しながら涙が止まらなくなり、
そのうち、楽器を弾いていない
電車やバスに乗っているときにまで、
勝手に涙が出てしまうという
状況に陥りました。
コントロールできなくなった自分を
どうすることもできず、
スクールカウンセラーの門を叩きます。
カウンセリングをしていただく中で、
自分は先生のため・親のために
音楽をしていたことに気づかされました。
「自分の音楽は自分のためにある」
その時にそう思ったものの、
その後も常に、
ヴァイオリンなんか
いつやめてもいいや、と
思っている自分がいました。
言葉を
交わさなくても、
言葉が通じなくても、
繋がっていける
大学院の勉強中、仲良くして下さっていた
音楽療法の先生に声をかけていただき、
「ウィリアムズ症候群」
と呼ばれる子どもたちとの
サマーキャンプに
参加することになりました。
「ウィリアムズ症候群」は、
染色体異常によって障害が現れてしまう
ダウン症に似たものなのですが、
不思議なことに
音楽に優れた才能を発揮する人が多いため、
このサマーキャンプでは
音楽セッションを中心に行われます。
初めてキャンパーたちと顔を合わせた日、
私はみんなの前で
ヴァイオリンを演奏しました。
静かに聴いて下さる
その集中力を感じつつ、
演奏が終わると、
涙を流している小さい男の子がいました。
私の音を聴いて泣いているのだと、
先生が教えて下さいました。
“こんな小さい子が
音楽を聴いて泣くなんて…”
にわかに信じがたい体験でしたが、
それと同時に
「言葉を交わさなくても、
言葉が通じなくても、
人と人とを繋げていけることが、
音楽の使命」
という、「音楽の原点」に
気づかされた瞬間でもありました。
ウィリアムズの子どもたちと、
その家族が全国から集まって
数日を一緒に過ごす、とても濃密な時間。
この年から10年間、
キャンプに携わることになります。
運よく、楽器店に
勤められた10年間
大学4年の12月、大学の先輩から
「卒業したら何するの?」と聞かれ、
「学校の非常勤講師でもやろうかと
思っているんですけど…」と答えた私に、
「今、ヴァイオリンの先生を
しているんだけど、
旦那さんの転勤で遠くに行くから、
もしよかったら、
引き継いでくれない?」
と言われたのです。
まさかのお仕事の依頼。
そして、ヴァイオリンの先生ともなれば、
誰でもできる仕事ではありません。
その場で即答した私。
その後、10年間県内の4つの楽器店で
お世話になることとなります。
癌宣告から、
たった1か月半…
私が26歳の冬、
父が56歳で亡くなりました。
癌でした。
癌が見つかって、たった1か月半。
とても短い闘病生活でした。
私自身、父はもう長くはないと知るのは、
亡くなる1週間前。
「年は越せないかもしれない」と
主治医に言われるまで、
事の重大さを知らされませんでした。
そして、父が亡くなった1週間後に、
父の母も亡くなりました。
クリスマスに葬儀場にいるなんて、
悪夢としか思えない現実でした。
ある日、父の書斎に入ったとき、
この部屋の主はもういないんだ…と思い、
ここにある物は
私に遺されたものなのだろうか…と
考えていると、
ふと私の名付け親は父であったことを
思い出したのです。
「ゆか」と名付けたかった父が、
字画にこだわる祖母の意見を取り入れ、
私を「弓佳」と命名。
「弓(=バイオリンの木の棒)が
佳い(=よい)」という名前に、
「両親はあなたに
ヴァイオリンをさせようと思ったの?」と
よく聞かれるのですが、
私は名前が呼んだのだと思っています。
ヴァイオリンと私を繋げたのは
父であるならば、
私がヴァイオリンを弾くことが
父への恩返しなのだと
思っています。
父が亡くなった半年後、
私はウィーン行きの飛行機に
乗っていました。
生まれて初めて、
本気でヴァイオリンを勉強しよう!と
思ったのです。
学校での人間関係の
トラウマに
悩まされた日々
12月に父と祖母が亡くなり、
年賀状を寒中見舞いで対応していた矢先、
年賀状で繋がっていた、
小学校1・2年生の担任の先生から
お電話をいただきました。
「お父様、大変だったのね~…。
ところで、今は何しているの?」
その先生とは、
大学に通学する電車の中で再会し、
私が教員免許を持っていることを
ご存じだったため、
「今、先生が足りなくて
困っているんだけど、
助けてくれないかしら?」
と言われ、楽器店のない時間に
小学校の非常勤講師として
勤務することになりました。
しかし、やはり“先生”として携わる学校に
私は馴染めず、
2月というとても忙しい時期から入った私は、
他の先生方との
コミュニケーションの取り方も分からないまま、
新年度を迎え、授業数も増える中で、
職員室にいる時間も長くなりました。
その上、いろいろなことを頼まれ、
職員室にいることも苦痛で、
何のために働いているのか
分からなくなったのです。
学校と楽器店の仕事を
掛け持ちするために、
朝早く出かけ、
夜遅く帰ってくる生活。
母と二人暮らしだった家は、
私がほとんどいない寂しい家となり、
父が亡くなったばかりの母には
耐えられず、これ以上、
この仕事は続けていけない、と
1年で仕事を辞めることになりました。
その後、数年間、
学校でのトラウマは夢に出てきたり、
あるときふと思い出して
胸が締め付けられたり、
完全に抜けるまでには、
想像以上に時間がかかったのでした。
包丁を子どもに向けた
小学校を辞めた半年後に結婚。
息子と娘に恵まれました。
母親になるという
念願の夢が叶ったにも関わらず、
厳しい現実に直面します。
2つ違いの子どもたちの世話は
予想以上に大変で、
ストレスが溜まると
子どもや夫に当たり散らすありさま。
脅しのつもりで、
子どもに刃物を突き付けたこともあります。
もしかしたら…と思い、
産婦人科に行くと、
PMS(=月経前症候群)と診断。
思い返してみれば、
独身の頃から気持ちの浮き沈みが激しく、
その原因が分かった反面、
どう向き合っていけばいいか分からず、
途方に暮れました。
子どものHSCと
夫のHSP
息子は小さい頃から
よくチックが出る子どもでした。
目をパチパチさせたり、
グルっと回したり。
小児科や眼科にいくつも行きましたが、
症状は治まりませんでした。
幼稚園の年中のとき、
「私と全然目が合わないくらい
チックが出てしまっているので…」
と担任の先生に心配され、
新しくできた小児科に
連れて行ったところ、
「もしよかったら、この本、
読んでみてくださいね。」
と、先生が貸して下さった本が
HSC(=人いちばい敏感な気質
《Highly Sensitive Person》の
子ども《Child》)の本でした。
息子は該当項目の
8割方当てはまっていました。
それを先生に報告すると…
「まだ認知度が低いので、
ご存じない小児科の先生も
いらっしゃるかもしれませんが、
5人に1人の割合でいるので、
該当する方は
わりと多くいらっしゃいます。
診断書や治療は必要ありません。
しかし、治るものではありませんので、
周りの方が理解しておく必要があります。
ご両親やご家族、幼稚園の先生方にも
お伝えしておいた方が
いいかもしれません。
そして、HSCのお子さんには、
あれしなさい!これしなさい!と
いうようなことは、
なるべく言わず、
本人の好きなようにさせてあげてください。
もちろん、
命の危険が迫っているような時には
厳しく言わなければなりませんが、
それ以外のことはできるだけ
自由にさせてあげた方が
いいと思いますよ。」
不思議なことに、その日から、
息子のチックはパタッと治まりました。
そして、そのことをきっかけに、
夫も自分がHSPだということを
知りました。
「何で自分はできないんだろう…と
思っていたことが、
そういう特性だということが分かって、
とても気が楽になった。
治せるものではないのだから、
ある意味開き直って、
前向きに考えられるようになった。」
…と夫は今でも言います。
そして、HSCやHSPを知ってから、
その人が過ごしやすい環境を
よく考えるようになりました。
ある日、年中になった娘が、
「私には良いところがない…」
と言い出したので、よくよく話を聞くと、
何か一つでも注意されると
自分を全部否定されたような
気持ちになる、とのこと。
きっと彼女もHSCでしょう。
でも、HSCやHSPは、
とても素晴らしい気質だと
私は思っています。
出る杭は、
もっと出せばいい!
いろいろなご縁があり、
今までに何人か発達障害を持つ方を
レッスン生として受け入れています。
その方たちのおかげで、
私は本当に成長させていただいています。
学校教育にうまく馴染めなかったり、
周りから厳しい目で
見られてしまうことが多かったり、
ご本人もご家族も本当に大変な毎日を
過ごしていらっしゃる方が多いのが
現状です。
でも、
彼らが私たちに教えてくれていることは、
本当にたくさんあります。
「普通って何だろう?」
「常識って何だろう?」
彼らと接していると思うのです。
私たちは常に
「思い込み」の中で生活しています。
その「思い込み」を新たな視点で
切り込んでいってくれているのが、
彼らなのだと私は思うのです。
これからの日本、
そしてこれからの世の中に、
とてもとても大切な人材ではないのかと
私は思うのです。
楽しい大人が少ない!
ある方がこんなことをおっしゃてました。
「子どものなりたい職業にYou Tuberって
あがってくるじゃない?
あれ、なぜか分かる?
子どもの見ている大人で、
あんなに楽しそうにしている大人が
いないからだよ。」
私たち大人は、仕事に忙しく、
子どもと過ごす時間も限られた中で、
身を粉にして日々生活しています。
きっと子どもから見たら、
全然面白くない大人なんです。
世の中はAIによって10年後には
35%の仕事が
なくなろうとしているわけです。
そして、その中で生きていくには
「それぞれの個性や特性を
仕事にすることが大事」と
言われているわけです。
でも、それを育む教育環境は、
なかなかありません。
じゃあ、どうすればいいのか。
子どもたちと関わる大人が
「楽しく生きる!」ということが
一番大事なのだと私は思います。
「大人になったら、
こんなに楽しいんだよ!」
「大人になったら、
自分で仕事作ればいいんだよ!」と、
子どもがワクワクするような姿を
見せてあげられる大人を
もっと増やしたい!!
私は、そんな願いを込めて
この仕事に取り組むことを決めました。
負の親子連鎖を
自分で断ち切る!
私は、自分の母親のように
感情的に起こる
親にはなりたくない!との一心で、
教育学を学び、
子育てに仕事に頑張ってきました。
しかし、
子どもに当たっているときの自分は、
母親そのもの。
そして、自分の姿は、
小さい頃に疑問に抱いていた
ヴァイオリン教室のお母さんたちと
同じ姿だったのです。
もしも、
子どもへの接し方がその家系による
「遺伝」であるならば、
私が育てている子どもたちもそうなる
可能性がある…。
それは決してあってはならない!と
思ったのです。
“子育ては、
遺伝ではないことを証明するために、
過去のトラウマや
過干渉な家系の連鎖を、
自分ですべて終わりにしよう!”と
心に誓ったのです。
自分より、
魂が先に泣く瞬間
子どもの初めての発表会で、
なぜか涙が溢れて止まらなくなりました。
何で泣いているのか分からないのです。
子どもはただ無邪気に
踊ったり歌ったりしているだけ。
この不思議な現象、
実は自分より先に
魂が泣いていたということを、
後に知ります。
自分には、
インナーチャイルドに問題があることを
15年ほど前から知っていました。
しかし、どうすればいいのか分からない、
癒し方も分からない。
小さい頃にヴァイオリンを弾いていた記憶がないのも、
それが原因なのです。
感情に蓋をして、押し殺してきた自分が、
ずっと心の奥底でくすぶっていました。
あるセッションで、
インナーチャイルドを
見つけるワークを体験し、
初めて何となく
自分のインナーチャイルドに
近づけた感覚がありました。
インナーチャイルドは、
決して悪いものではない。
自分と同じ方向を向いて、
一緒に歩んでいくものなんだと
知ったとき、
自分のインナーチャイルドとの距離感が
ぐっと近くなれた気がしたのでした。
「自分を見つめる
時間」を
作れる環境が欲しい
インナーチャイルドを
持っていない人は、
もしかしたらいないのかも
しれません。
自分が子どもの頃に
してほしかったことが目の前に表れると、
どこからともなく
怒りや悲しみの感情が湧きだし、
自分をコントロール
できなくなってしまう、
ということを経験した人は
少くなくないと思います。
子どもにイライラするのも、
自分のインナーチャイルドが
原因だったりします。
今の日本は、まだまだ「お母さん」に
求められるものが
非常に大きいのが現実です。
世のお母さん方は、自分を後回しにして、
自分を殺して、
子育てに追われている人が
多いのではないでしょうか。
そんな大変な想いを抱えている
お母さんにこそ、
「自分を見つめる時間」が
必要なのではないかと思っています。
そして、「自分を見つめる時間」を作ってくれる環境を、
みんなの手で作っていく必要があると思っています。
私一人では微力かもしれないけれど、
今自分にできることは
これしかない!と思い、
カウンセリングを学ぶ決意をしました。
心のモヤモヤの
原因は、
意外なところにある!
忙しい人が多い世の中で、
いかに素早く成果が出せるか?
効率化が全てだと
言っているわけではありません。
しかし、早く成果を手に入れることが
求められている世の中であることは、
間違いありません。
いろいろ複雑になっていく中で、
私は「シンプル」であることは、
とても大切だと思っています。
私たちがこうして生きられているのは、
両親が自分を産んでくれたからに他なりません。
そして、両親の両親であるおじいちゃんおばあちゃん、
そしてそのまた両親である
ひいおじいちゃんやひいおばあちゃん、
そしてそのまた両親であるたくさんのご先祖様。
誰か一人でもこの世に存在しなければ、
子孫を残さなければ、
あなたはいないのです。
そして、
人間が誕生した縄文時代の前は人間は動物であり、
そのもっと前は動物などいない植物だけの時代があり、
その植物はプランクトンから生まれ、
プランクトンが生まれる前は、
そもそも地球などなかった…。
そう考えると、
どういうわけか「宇宙」というものが存在し、
ビックバンと共に「地球」が生まれ、
「生命」が誕生し、
想像を遥かに超える気の遠くなるような年月の末に、
私たちは生きているのです。
もうそれだけで「奇跡」なのです。
私がセッションで行っている
カードやチャネリングと呼ばれるものは、
人間の「潜在意識」というところに
アクセスをしていく方法です。
その潜在意識は誰にでもあり、
その潜在意識は海のように深く、
私たちには見えない真っ暗な静かな
潜在意識という海の底は、
宇宙に繋がっていると言われています。
私たちの中に「宇宙」はあるのです。
宇宙や自然を感じることこそ、
自分が「自分」に戻れるとき。
しかし、初めから自分一人で
自然や宇宙と繋がることは難しく、
繋がり方を教えてくれる他者が必要です。
私の使命である【1mission 1music】は
「すべての人に1つの使命と1つの音がある」
という意味を込めて作った言葉です。
あなたの使命を紐解き、
あなたが使命に向かって生きていけるよう、
あなたの音(=波動)を整え、
ポテンシャルを上げ、
社会と最大限に「共鳴」していくためのお手伝いをすること。
一言で言うと、
あなたの「魂の解放」をするために、
こうしてお仕事をさせていただいています。
キラキラ輝くあなたの未来を一緒に見てみたい…!!
そんな想いを胸に、たくさんの出会いに感謝し、
日々を送っております。
最後に…
幼少期より、
ヴァイオリン教室で出会う
周りのお母さんたちの熱量に
違和感を感じながら過ごしてきました。
3歳半~10歳頃まで
自分がヴァイオリンを
弾いていた記憶がなく、
そのことを長年、
不思議に思っていたが、
心理学を学び、
周りの期待に
応えなければならない
プレッシャーが
自分の感情に蓋をしていたのだ
ということを知ります。
「あー、もう死んじゃいたい!
うまく弾けない度に
もっと!もっと!って言われる。
キリがない。
うるさい。
あー、お外で遊びたいなぁ。
私の“大切な時間”を奪った
ヴァイオリンが許せない!
私の人生を返せー!
私はただみんなを
楽しませたかっただけ。
大人がパチパチしてくれるから
頑張っただけなのに、
みんなと競争しなきゃダメなの?
私は(人が好きだから)
みんなと仲良くしたいのに。
“もっと頑張りなさい!”って
言わないで!」
小学生の頃の私の感情の蓋を開けたら、
こんな感情が中に入っていました。
“私のような子どもを
これ以上増やさないように…”
との想いから、
小さい頃から興味のあった
心理学を学び、
enotを立ち上げました。
「enot」とは、
逆から読むと「tone」。
トーンは
「音」「調子」「音色」「色合い」など、
そのものの「あり方」を表す言葉。
「あり方」とは
その人がその人らしく生きるために
必要不可欠な要素です。
「enot」は<イーノット>と読み、
≪e(良い)をnot(ダメと)しない≫
⇓
≪良いものはどんどん褒めて
伸ばしていこう!≫
というメッセージになっています。
「enot」⇔「tone」は、
「紙一重」
「コインの表裏」
というように、
その視点を少し入れ替えるだけで、
物事はまったく違う現象に見え、
そのように視点を変えるだけで
自分は変われると
信じることの大切さを表しています。
【その人がその人らしく
生きていける
社会になってほしい】
これがこの言葉に込めた私の願いです。